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アラフィフにして、フリーランスに転向したHSP女は果たしてフリーとして生きていけるのか?

古代の日本人の寿命は100歳だった⁈〜魏志倭人伝の中の日本

≫倭の木にはタブノキ、トチ、クスノキ、ボケ、クヌギ、スギ、カシ、クワ、カエデ、竹は、篠(ササ)・簳(ヤタケ)・桃支(カツラダケ)がある。ショウガ、タチバナ、サンショウ、ミョウガがあるが、美味しいのを知らない。また、大猿、黒い雉(きじ)もいる。≪

日本の植生がわかります。風土記にも細かく載せられていますが、中国の人からの目線なので面白いですね。ショウガ、タチバナ、サンショウ、ミョウガの美味しさを知らないなんて!
遣魏使がもてなされたときに羊や鴨を使った洒落た料理が並び、その中にサンショウを使った料理もあったようで。異文化を知り、きっとワタシたちのご先祖さまは、日本へ食文化を持って帰ったのだろうと想像します。
 
 
》そこの風習では、行事や旅行にさいして何かしようとすると、骨を焼いて卜占で吉凶を占う。まず卜占を告げ、その解釈は中国の亀卜の法ように、火で焼けてひび割れた亀裂をみて兆しを占う。《
 
亀卜についてこちらのサイトが詳しかったので参考に。大変わかりやすく、勉強になります。

〇道教の成立過程
【亀卜】(妙覚寺サイト、高橋俊隆氏)

 
『亀卜の方法は腹甲に占い事を絵文字にして刻み、良く燃える箒(はばき)という木に火をつけ、腹甲に近づけると亀裂します。この亀裂の形によって天意を伺い吉凶を判断しました。』
 
古来の日本では亀よりも鹿の骨がよく使われていたようです。
「天岩戸神話」において、天岩戸に隠れてしまったアマテラスを誘い出すための一つの方策として、アメノコヤネとフトダマが、鹿の肩甲骨を焼いてできた亀裂で占う太占(フトマニ)を行ったと『古事記』に記されています。
 
 
》その集会や居住の座位には父子男女の区別はなく、人々は性来酒が好きである 。大人(高貴な人)に尊敬を表す作法は、ただ拍手をして中国の跪拝の礼(膝をついての拝礼)に当てているようだ。《
 
うーむ、現在のように、いや現在も廃れつつあるのかもしれませんが、上座、下座、という概念がなかったようです。
お酒好きって、いう点に好感がもてます♪今も昔もお酒が好きなのね。
高貴な人に拍手をして礼とする、とは、要は神社での作法と同じということでしょうか?あのお参りの作法、古代の目上の人に対する礼だったのかもしれません。

》『魏略』によると、そこの風習では、一年に四季があることをしらない。しかし、春に耕し、秋に収穫をすることを計って年紀としているようだ。
そこの人々は長寿で、百年、あるいは八、九十年を生きる。その習俗では、国の高貴な人は四、五人の妻をもち、一般の庶民でも二、三人の妻を持っている。婦人は淫らではなく、嫉妬もしない。《
 
ツッコミどころ満載ですが、昔から長寿⁈信長の時代に人生50年と歌っているのに古代は100歳近く生きたというのですが、まあ、元気な年寄りが多かった、と見るのが妥当でしょう。
昔は奥さんがたくさんいたのですね。それでも「婦人は淫らではなく嫉妬もしない」とは、当時の中国の人の羨ましい!といった感情がちょっと見えたりして。
 
》盗みもなく、訴訟も少ない。その法を犯すと軽い罪は妻子を没収され、重罪では、その家族と一族が殺される。身分の上下の秩序はよく守られ、十分に臣服している。租税、賦役を納めている。立派な建物のある国がある。国々には物資を交 易する市があり、大倭に命じてこれを監督させている。《
 
軽い罪で妻子没収とは、かなり重い罰な気もしますが^^;
この文から分かるのは、秩序を大方守った生活を日本人が送っていた、ということ。「立派な建物」「物資を交易する市」とは、おおよそ卑弥呼の時代に、しっかりした文化があったことがわかります。
 
卑弥呼の時代はなんとなく原始人の延長のイメージがあるかもしれませんが、裏を返せば中国は三国志の時代。当時は下手をすると現代よりアジア圏はかなり交易が盛んだったのですから、しかも好奇心旺盛で高度な文明に日々憧れてつぎつぎと取り込んでゆく日本人、原始人で済むはずがないと思っています。