ままここmamacoco

アラフィフにして、フリーランスに転向したHSP女は果たしてフリーとして生きていけるのか?

平将門の首塚がなぜ静岡にあるのか?

8月15日をなんの日かご存知ですか?

終戦記念日?

それももちろんそうなのですが、

 静岡のある町では、

 

平将門を供養する日、なんです。

 

将門の首塚が静岡県掛川市にあります。

 

掛川市十九首の首塚

静岡県掛川市 平将門十九首塚

その首塚の供養祭を行うのが、今日8月15日。

 

なぜ、静岡に平将門の首塚があるのか?

 

というのが、今日のお話しです。

 

「十九首」という地名

掛川市にこんな不思議な地名があります。

「十九首」(地元民はジュウクショと読む)

以前義母が住んでいたため、子どもを連れてよく行った街です。

この町の第一印象は「変な名前」でした。

聞いたことないでしょ?こんな名前の町。そしてこの町の名前の由来を聞いたとき、わたしはぞっとしました。なにせ、あの平将門が絡んでるんですから。

 

「十九首」の由来

この町名の語源は、その名の通り、「十九の首」という意味です。ちょっと怖いでしょう?

一体何があったのでしょう?

 

ほかと少し違う平将門の掛川説

由来は、平安時代までさかのぼります。

 

時は天慶3年(西暦940年)、平将門は平氏一族の争いの中、次々と関東の地を占拠していきました。そして京都の朱雀天皇に対して「新皇」と名乗ったため、朝廷の逆賊とされ、即位からわずか2ヶ月で、藤原秀郷、平貞盛らによって討伐されました。

 

それが天慶3年2月14日。

 

それから平将門とその臣下合わせて十九人の討ち取った首が京都へと運ばれます。

 

ここまでは、あちこちの平将門伝説と同じですが、この先が、少し違います。

 

秀郷は、京都へと十九人の首を運びます。旅程のおおよそ半分のところがこの掛川の地でして、ちょうど現在の十九首へと着いたところで、京都から検視の勅使が来ました。

そして近くの川(血洗川)で首を洗い検視。

首実検のあと、秀郷は「平将門は逆臣なりとも名門の出である。その罪重しと言えどもすでに滅びて亡し。その死屍に鞭打つのは礼に非ず」

と言い、それぞれ別々に埋葬し、懇ろに供養しました。

 

それが8月15日。

それ以来春秋の彼岸と、毎年8月15日には供養祭が行われています、というのが掛川説です。

(十九首塚の由来参考)

 

では有名な飛ぶ首伝説は?

有名な東京の神田明神などに伝わる平将門伝説は、こうです。

 

まず京都まで平将門の首はちゃんと届けられています。

 

そして十九人の首級(しるし)は七条河原で何ヶ月も晒し首の獄門にあいました。その間平将門の首はまるで生きているかのように目を見開き歯ぎしりをしていたといいます。その後、「躰をつけて一戦(ひといくさ)せん。俺の胴はどこだ?」と言い、その声は毎夜響き、しまいには光りながら身体を求めて東へ飛んで行きました。

 

……というもの。

首が飛んで行ったという伝説はあまりにも有名です。

 

しかし掛川の由来と合わせますと、いろいろ疑問点が出てきます。

 

掛川説の疑問点

どちらが正しい、間違っているという観点ではなく、率直な疑問点をあげてみたいと思います。

 

まず掛川説の疑問点。

実際に殺されたのが2月14日。掛川に着いて供養されたのが8月15日。

丸々半年です。

当時は歩くしかなかったとはいえ、半年はかかりすぎている気がします。

調べたところ、江戸時代に江戸から京都までの旅程が13日〜15日とのこと。

まだ平安時代では道が整備されていなかったとしても1ヶ月や2ヶ月あれば着いたのでは?

 

晒し首というのが初めて行われたのがどうやら平将門が初めてという話し。

朝廷側としては、首実検するなら早く確認したいと思うのです。それを悠長に半年も待っていられるでしょうか?

 

京都から検視が送り込まれ、実際掛川まで来ているようですから急いで確認したいという意思は感じられます。

掛川は東海道五十三次でいうほぼ真ん中(正確には隣の街)ですから、京都まであと半行程あります。

そこから京都までもし運ばれたなら、暑い夏も通っていますし、首はかなり腐敗し、七条河原で晒し首の時など見られたものではないのでは?

 

掛川説の事実としてあった点

しかし掛川説がウソだともいえません。

「十九首」なんてとんでもない地名が付いているのですから、「十九」の首は確かにこの地に来たのでしょう。

もしかしたら平将門ではなかったのでは?

とも考えましたが「十九の首」なんて、同じ時期になかなかあるものではありません。

よほどショッキングな出来事だったので地名になったのでしょうから、平将門も入れた「十九の首」がこの町に来たこと、これはウソだとは思えません。

 

 七条河原の首がニセモノだったのか?

七条河原も事実だと思っています。

獄門第一号という、あまりありがたくない称号があり、そんな称号がつくほどの人物の話しが根拠がないとは思われません。何ヶ月も晒し首になっていたのは京の街でもかなりセンセーショナルな事件だったでしょうから、これは歴史に残るべくして残った出来事だと思われます。

 

ではもし京都に来る前に、静岡に埋葬されていたのなら、ニセモノの首なのか?

平将門は額を弓矢で打ち抜かれたとありますから、その痕があるか当然検視されますし、確認するでしょう。

空を飛んでいったというのは人々の語る中から生まれた伝説でしょうが、平将門が獄門第一号は事実だと思われます。

 

それではどちらの説が正しいのか?

では、この二つの説が両方とも事実だとすると、一体何が起きたのでしょう?

 

いや、やっぱり

掛川説がでっち上げ?

 

いえいえ、七条河原の方がウソ?

 

それは……またあした!

 

平将門の首はどこに?解答編

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